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「不登校」ってなあに?

 このページでは、「不登校」「高校中退」について「ねたろー流」の説明をしています。

「不登校」の歴史

 ここでは、今まで「不登校(学校に行か(け)ない問題)」がどのように扱われてきたのか? 私が知る限りのことをご紹介します。以下に登場する人物名(敬称略)、団体名はあえて実名で取り上げています。

 学校制度が始まった頃

 「不登校」は、学校制度が始まった時からあったはずです。日本では明治の始めに学制が敷かれ、4年(後に6年に延長)の義務教育となりました。しかし、義務教育といっても、学費は無料でなく、かなり高かったようで、実際に通うことができたのは裕福な家の子どもだけだったようです。

 行けなかった子の多くは、親の仕事を手伝ったり、丁稚奉公に出されるなどしました。そういう子どもは多かったため、学校に行かないこと自体、そんなに珍しいことではありませんでした。今でも農業や漁業に従事している高齢の方は、学校を出ていない人がかなりいるはずです。

 

 社会問題になり始めた頃 1970〜1980年代

 終戦、高度成長期を経て、日本人の生活が向上してくると、表面的には理由がないのに学校に「行か(け)ない子」が増えてきました。「行けない子」は「情緒障害の一つ」とされ、「当人の内面的な問題」とされていました。

 この頃は「不登校」とは呼ばず、「登校拒否」と呼ばれていました。これはヨーロッパなどで使われていた「school refusal」という言葉を直訳したものと思われます。実際、ヨーロッパ(主にイギリス、フランス)では、1940年代からこういった子どもがいたそうです。

 戸塚ヨットスクールと風の子学園

 そんな中、'70年代後半に「戸塚ヨットスクール」(愛知県)という場所がマスコミに取り上げられるようになります。「ヨットの訓練をした子が学校に戻った」というのです。「ヨットの訓練を通して、子どもらしい感情を呼び覚まさせる」などとわけのわからないことを言っているのですが、ヨットの訓練は「スパルタ」と呼ばれる方法で、コーチの指示に従わない子どもに容赦なく体罰を与え、それによって命を落とす子が出ました。最終的には代表者の戸塚宏やコーチらが逮捕され、懲役刑を受けます。が、最近、戸塚宏が出所し、また同じ方針でヨットの指導を始めるそうです。誰も相手にはしないと思いますが、こんなご時世です。また体罰で死ぬ人が出ないか心配です。

 同様に、「風の子学園」(広島県)という場所でも体罰による死者が出ました。('90年頃) ここでは代表者に従わない子を鉄道用の貨物コンテナ(当時の国鉄は合理化で余剰になった貨物コンテナを一般の人に払い下げていて、倉庫などに使われ、あちこちで見ることができた。また、カラオケボックスが登場したのもこの時期で、当時はこのコンテナを使ったものが多かった。)に閉じ込めました。夏、直射日光の当たるコンテナは、内部が40℃以上にもなったといいます。(エアコンはなかった) 中に入れられた子は、熱射病で死亡しました。この件で代表者は逮捕され、後の裁判では、この場所に入所を勧めた行政側にも損害賠償責任を認めています。

 これ以外にも、スパルタ式の指導によって復学を目指すような施設が多数存在しました。「甘やかされてるから、学校に行けなくなる」という偏見がその背景にあったからです。私が知っているのは、「学校に行けないのは心が弱いからだ」として、子どもに生ゴミを拾わせるという公的機関(精神科の病院)です。(今もやっている可能性があります。)

 管理教育

 1980年頃、学校では校内暴力が社会問題になっていました。暴徒化した生徒が教師や他の生徒に襲いかかったり、学校の備品を破壊したりしたのです。学校に警察がやってくることも度々ありました。

 学校での暴力はその後減少しますが、今度は「いじめ」が社会問題となり、鹿川君という少年が「いじめ」の被害が原因で自殺しています。自殺前、学校では「葬式ごっこ」という遊び(誰かを死んだことにして、みんなで「さようなら」などと寄せ書きする。彼の担任も参加していたらしい)があり、彼がその標的にされていたそうです。

 もっとも、校内暴力が減ったのは、学校側が管理を強めた(「管理教育」と呼ばれる。問題行動を厳しく取り締まったり、校則を厳しくした。意味不明な校則が多数登場し、当時のテレビやラジオ、雑誌では、変な校則を取り上げたコーナーが人気だった。)ことが原因で、それまで教師に向かっていたものが、自分より弱い立場の人間に向かったのが「いじめ」と思われます。「いじめ」の被害に遭った子は、その被害をなかなか言い出せないので、実態が表に出ず悲惨な結果につながったわけです。

 「管理教育」の象徴とも思えるのは、おそらくこの事件だと思います。「不登校」とは関係ありませんが、始業時刻が近づくと校門にいる教師がカウントダウン(大声で10、9、8…と言っていた。生徒は0になるまでに校門をくぐれないと遅刻とされ、何らかの指導を受けた)を始め、チャイムが鳴ると校門を思いっきり閉めていたのです。校門は非常に重いものですが、速い速度で動いていた校門が当時高校1年の女の子を直撃し、女の子は命を奪われました。神戸高塚高校(神戸市)であった校門圧死事件です。カウントダウンをして門を閉めた教師は逮捕され、学校側の姿勢も非難されましたが、こんなことで命を落とすことになった女の子とそのご遺族の心情を考えると、何ともいたたまれなくなります。

 '80年代後半になると、表面上は「いじめ」の件数も減少するのですが、今度は学校に行か(け)ない子どもの数が飛躍的に増え始めます。「いじめ」の被害に遭った子が行かなくなったのはもちろんですが、管理教育に絶望した子どもたちが学校に行かなくなったという部分も否定できません。

 学校側が「管理」を強めることで「校内暴力」→「いじめ」→「登校拒否(不登校)」と学校の問題が移り変わっていったことがマスコミに取り上げられ、「行け(か)ない子」に対する世論の後押しも強くなりました。東京の有名なフリースクール(最近聞かないが…。もう無くなったか?)がオープンしたのもこの時期です。

 また、学校には行っても教室に入らず保健室で1日を過ごすという「保健室登校」の子どもの存在がクローズアップされます。

 管理教育下の「行けない子」の扱い

 学校側は「行か(け)ない子」に対し、「内申が悪くなって、進学先がなくなる」「学校に行かないお前は弱い(ダメな)人間だ」と学校に来るように脅しました。また、そのような子を持つ親に対しては、「『子どもに義務教育を受けされる義務』に違反している。学校側が訴えることもできる」とも脅していました。やむなく親も、「学校行け、行け」と子どもを諭す(「登校刺激」という)のですが、かえって逆効果になるケースも多々ありました。こういったことがマスコミに取り上げられるようになり、当時の文部省は重い腰を上げることになります。

登校刺激はしないで 1990年代

 文部省の大転換とフリースクール

 1992年頃、文部省は、従来とは180度方針を転換する通達を出します。「『学校に行か(け)ない』という状態は、誰にでも起こりうるもの」であるとし、自治体などの行政を通して「無理やり学校に行かせると、状況を悪化させる恐れがある。だから登校刺激するな」という指導が学校全体になされました。この考え方の真意は、「信じて待つこと。子どもはいつか、自分から動き出す。」ということにあります。

 またこの頃から、「登校拒否」でなく「不登校」という言葉が使われるようになります。

 「行か(け)ない子」の受け皿(フリースクール)も有志の手によって全国各地に作られました。これらの多くは、管理教育を反面教師にして、規則のない自由な場所としたり、運営は子どものアイデアを重視したりしていました。一方で行政側は、復学を闇雲に迫る「適応指導教室」を自治体単位で開設しました。その多くが自治体の「教育センター」に作られましたが、学校の空き教室を利用したものもあり、「学校に行く」ことに恐怖や不安を感じる子どもが多い中、子どもの立場に立った施設じゃないことは明白です。

 そして、特にフリースクールに通う子らが「学校に頼らずに生きる子ども」としてマスコミにたびたび登場するようになります。また、教職員による猥褻行為などの不祥事が度々発生し、学校に対する信頼が失墜したこともあり、このような生き方に対する社会の理解も広がっているように見えました。その証拠に、'90年代から'00年代の始め頃までは、フリースクールに通う子どもが度々ドラマに登場していました。

 そうしたこともあり、「不登校」と呼ばれる子どもの数は加速度的に増え続け、文部省(後に文部科学省)の発表では、毎年過去最高を更新するようになりました。

 学校現場は?

 登校刺激をできなくなった学校側は、「行か(け)ない子をどう扱っていいかわからない」と腫れ物に触るような感じで接するようになります。でもその態度が、「学校は何もしてくれない」と親御さんから反発を買うことになります。理解があって行動力のある親御さんは、「親の会」などに参加して、同じような子どもを持つ人と交流を広げたりできたわけですが、皆が皆、こういうふうに動けるわけではなかったのです。

 とはいうものの、子どもにとっては、学校に不安や恐怖を感じ行けないのですから、それはそれで良かったとは思いますが…。でも、こういったやり方は、問題を先送りにするだけのことでした。このようにして放って置かれた子どもたちは、書類上は中学校を卒業できました(卒業証書は後日親が受け取りに行く)が、良くて通信制高校に進学、進路を決めずに社会に放り出された子も多かったと思います。

 一方でこんなこともありました

 '95年の阪神大震災では、たくさんの人が命を奪われ、財産を失いました。一方で地震直後、「不登校」の子どもが一時的ではあれ、復学したようです。多くの人が命や財産を奪われ、避難所生活を強いられた人も多かったですが、避難所で様々な人と触れ合いうち、学校と異なる人間関係が生まれ、学校の敷居が小さくなったと私は解釈しています。

 その後、状況が落ち着き学校が再開されると、一時は戻った子たちは、また行か(け)なくなりました。しかしながら、ある意味、地震直後の学校は、学校の理想的な形だったとも感じます。一人一人がお互いを認め合い、支えあうという環境があったのではないでしょうか? 今の学校にいちばん必要なことだと思います。

 高校入試の配慮とサポート校

 全日制高校においては、出席日数が少なく内申書(調査書)の評価が低かったため、特に公立高校への進学は絶望的でした。が、「学校に行か(け)ない子」の増加により、高校入試にもそれに対応した配慮がなされるようになります。従来の内申書の代わりに「自己推薦書(内申書)」を本人に作成させ、入試にはこれを合否判定に使用するというもので、これが全国に広がっていきました。しかしながら、このやり方で高校に入学できても、他の生徒とは異なる過去を持つため肩身の狭さを感じ、行けなくなる子もいるようです。この制度を利用している子がどのくらいいるのかはまったく不明です。

 私立高校についても、事前に高校側に打診し、承諾を得てから受験することが一般的でした。一部には、調査書に出席日数の記入欄のない高校もあったのですが、担任が調査書の記入を拒否したこともあったようです。しかし現在は、少子化などで生徒集めに苦労する学校もあり、多くは柔軟に対応してくれるようになりました。

 '90年代後半になると、「サポート校」という通信制高校の補習を目的にした塾が全国に造られます。通信制高校は、独学で学習し毎週レポートを作成して学校に送ることで単位を取得していくわけですが、小中学校の学習内容も十分習得できてなく、もともと学習する習慣のない子にはかなり厳しく、そういった子をサポートする仕組みが必要だったのでしょう。また、非行などで学校に寄り付かなかった生徒の受け皿としてもサポート校は期待されました。サポート校は、主に私立の通信制高校と連携し、サポート校で授業を受けることで通信制高校で単位を取得し高卒資格をもらえるというシステムですが、トラブルが多く、当サイトにも相談が寄せられています。

 

21世紀になっても「不登校」は止まらない

 数は減り始めましたが。「行けない子」はやっぱりダメな子?

 '90年代後半以降、少年犯罪などが増えたことにより、外国の例にならって各学校にスクールカウンセラーが配置されました。

 そして、2002年、「行か(け)ない子」の数が始めて減少することになります。「スクールカウンセラーによる働きかけが功を奏した」と文部科学省は説明していますが、詳細は右側リンク「相談室とスクールカウンセラー」に記載しているとおり、登校を無理強いするだけのようです。だから、仮に復学しても、強いストレスを感じながら学校に行くことになるため、そのあたりが将来的にどういう形で現れてくるのかが不安です。

 また、2003年頃、文部科学省が今までの方針を変更する旨の発表を行いました。(実際に発表したかどうかは不明) 「今までは『登校刺激しないように』としていたが、待つだけではダメで、必要に応じて登校するよう働きかけるのも必要。」ということです。

 その後も数年は減り続けましたが、実際は、学校側が再び登校刺激するようになっただけのことと思われます。

 日本中を震撼させたオバハン

 この頃になると、「不登校」に関する話題が出尽くしたのか、「不登校」がマスコミで取り上げられることは少なくなりました。が、とんでもない形でワイドショー番組に登場することになります。

 「キャリア25年の女性カウンセラー」というタイトルで、カウンセラーを名乗るオバハンが子どもの家に押しかけ、子どもや親を罵倒して自らが運営する施設に無理やり連れて行くというもので、その一部始終をテレビで放映していました。それ以後、NHKを含む各テレビ局の番組にこのオバハンが登場し、同じように「行か(け)ない子」や「ひきこもり」状態といった、何を言われても反論できない人に罵声を浴びせるシーンが全国に放映されました。当時、相談に応じていた親御さんから、「うちの子は大丈夫だろうか?」と心配するメールが来たことを覚えています。

 このオバハンをテレビで見ることは最近はありませんが、このオバハンの本名で検索すると、講演会の案内がずら〜っと出てきます。それも、多くが自治体が主催する講演会です。ここに、学校や行政のこの問題との関わり方がはっきり現れていると思います。「学校に行か(け)ない原因は、本人の弱さや拙さであり、こういう人に怒ってもらわないといけない」と彼らは考えているようです。こういう考えは戸塚ヨットスクールの時代とまったく同じであり、彼らはまったく進歩していないことが伺えます。

 抵抗できない人を一方的に問い詰め、連れ出す行為は人権侵害(犯罪にもなります。)であり、人道上も許されないことだと思います。が、これ以降、「学校に行か(け)ない」ということが再びネガティブに取り上げられるようになりました。

 そして、今…

 最近いただく相談では、担任から「何で学校に来ない」としつこく聞かれたり、その他心無い言葉を浴びせられさらに傷ついているケースもあります。また親も「学校に行け」と急かすことが多いようです。これは、子どもが「いじめ」などの被害を受けていても同じです。「行か(け)ない子」に対する風当たりは、悲惨だった'80年代以前に逆戻りしている感があります。

 しかし、ここ2年くらいは、「いじめ自殺」が再びマスコミで取り上げられるようになり、それに伴ってか、「行けない子の数」は再び増加に転じています。文部科学省は「対人関係を築けない子が増えた」「家庭や地域の教育力が落ちている」といっているんですが、学校側の問題点にはまったく触れられていないんです。文部(科学)省や学校は'80〜'90年代も含めて、この問題と正面からは向き合っていません。文部(科学)省が何度か通達を出しても、これらは場当たり的な対処でしかなく、「教室で何が起こっているのか」「子どもの内面はどうなのか?」という部分には関心を示さず、「行ってるか、行ってないか」という表面的な部分にしか関心がないようです。

 子どもから見て学校というのは、勉強をする場所よりも「生活の場」といった方が正しいと感じています。「生活の場」は、そのまま「成長の場」でもあります。そこに参加できないことは、子どもにとって成長の機会を奪われることにもなります。すべての子どもが安心して過ごせるような安全な場所であるために、学校をどうすればいいのか、文部科学省の人が考えなければならないのはこのことです。なお、私は、こういった問題に一応の答えを出しています。概要を「『あした、いいこと』から感じること」(右にリンクあり)で取り上げていますので、よろしければごらんください。

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2017/02/12 更新